2013年3月22日金曜日

言葉の伝わりやすさについて

とくに仕事で使うことを前提にするのなら、丁寧な言葉よりも、伝わりやすい言葉を心がけるべきなのだと思う。


伝わりやすさには深度があって、言葉の最前に動詞を持ってくるのが最初の段階、もう少し慣れたら、動詞の代わりに要約を置くことができると、言葉はさらに分かりやすくなる。自分がどうしてほしいのかではなく、自分が情報を出すにあたって相手は何が知りたいのか、聞き手にとっての「要するに」を想像して、それを言葉の最前に配置することができるようになると、言葉はさらに伝わりやすくなる。


丁寧な言葉は伝わりにくい


漠然と丁寧な言葉というものは、会話の内容が伝わりにくい。


ぶっきらぼうな言い回しよりも丁寧な言い回しは好まれて、だれでもたぶん、仕事をする人は「丁寧な会話を心がけましょう」なんて教わっているものだから、電話の冒頭はたいてい、話者の挨拶が最前に来て、「今お時間は大丈夫でしょうか」みたいな時候の挨拶が後に続く事になる。


会話の本文たる要件は、病院の場合には単なる報告であったり、書類の間違えを確認するものであったり、あるいはときどき、患者さんが今電話先で急変していて、今すぐに主治医に来てほしいという内容であったりもする。会話には様々な内容と、それに応じた重要度があるのだけれど、丁寧な挨拶は、そうした重要度を伝えてくれない。


動詞を最前に配置する


要件を聞く側にとって、丁寧な挨拶というものは、何も大切なことが語られていない、単なる待ち時間に等しい。


丁寧な挨拶をどれだけ丁寧に聞いたところで、これから語られる要件は何なのか、それは自分にとってどの程度の重要度を持っているのか、挨拶からはそれを推し量るすべがない。覚悟を決められない言葉は、あるだけ不快で、むしろないほうがありがたい。


練習なしに簡潔な会話を行うのは案外と難しい。忙しい相手から「結論だけ話してください」と返答されて、結果として何も伝えられないケースは珍しくない。


たとえば警察に電話をすれば、まっさきに「事故ですか? 事件ですか?」と尋ねられる。消防に電話をすれば、「火事ですか? 救急ですか? 」と質問される。簡潔明瞭を目指す手前の段階で、まずは「この会話の動詞は何なのか」を考え、その言葉を会話の最前においてしまうと、以後の話が伝わりやすくなる。


病棟から医師に電話をかける時には、報告だけしたいのか、書類や処方の確認をしてほしいのか、何かの判断をしてほしいのか、状態の変化なり急変なりで、とにかく病棟に来てほしいのか、動詞の種類はせいぜいそれぐらいしかない。会話の冒頭に、「急変です」「報告だけです」「指示の確認です」「病棟に来て患者さんを見てほしいので電話をしました」とか、これから話す言葉の動詞部分だけを前置きしてから本文を話すと、話を聞く側にはある種の安心が生まれる。


それが報告を聞けばいいだけのことならば不必要な焦りや不安は解消されるし、重要度の高い動詞、たとえば「急変です」みたいな言葉を聞いたら、あとの話を聞くまでもなく、主治医は病棟に走ることになる。


要約は大切


同業者どうしの会話であっても、要領を得ない電話はものすごく多い。


心筋梗塞で苦しんでいる患者さんを真横に、「76歳女性、3年前から高血圧で当院に通院中、今回4日前より労作時の胸痛が出現して当院を受診…」と病歴の朗読をはじめて、「こんな人が現在血圧60の触診、できれば先生のところに搬送したいのですが」と朗読が終わる頃には呼吸停止していたりする。話されている内容はたしかに正確で客観的なのだけれど、「心筋梗塞疑いでショック状態になった患者さんを転院搬送したいのですが」と教えてもらったほうが、受ける側としてはよほどありがたいし、もしかしたら患者さんの呼吸も止まらないかもしれない。


客観的で正確なプレゼンテーションは大切だけれど、正確な言葉を快適に伝えるためには、前提として「聞き手に要約が伝わっている」ことが必要になってくる。


要約を行う場合には、「今までに会ったこともない、お互い見知らぬ誰かに対して、今自分が抱えている問題を一言で伝え、協力させるためにはどう話すべきか」を考えるとうまくいく。


見知らぬ相手だから、相手に何かの知識を期待することはできないし、見知らぬ誰かに援助を求めるときに、「助けてください」の一言もなく、いきなり病歴を語りだす人もいない。要約は、自分がどんな問題を抱えているのか、相手の知識に期待することなく表現できなくてはいけないし、「自分がこうだ」ではなく、「相手にどうしてほしいのか」という要素を含んでいないといけない。


抱えている問題の内容と、それに関して相手に期待する行動をまとめて一言で語ったものが会話における要約で、要約は短ければ短いほど好ましく、要約に込められた情報を絞り込むほどに、逆説的に以後の「本文」を興味深く聞いてもらえるようになる。


相手にとって切実な問題を想像する


心エコー検査には時間がかかって、患者さんと会話をしながら検査をする機会も多い。心臓の検査だから、「今までに心臓の病気をしたことがありますか?」という質問も可能なのだけれど、前置きなしにこうした質問を行なってしまうと、患者さんは検査が終わるまでの間、「自分の心臓に何かトラブルでもあったのだろうか?」と不安に思うことになる。質問を行う前に、「心臓にはとくにトラブルは無さそうなのですが」と前置きを入れることで、こうした不安を排除することができる。


たとえば病棟から患者さんのご家族に連絡をする際には、まず最初に「この電話は急変の連絡ではありません」とか、「患者さん自身にはとくに大きな変化があったわけではないのですが」とか、その電話が急変の連絡でないのなら、そうした前置きを真っ先に話さないといけない。患者さんのご家族には急変の有無こそが切実で、それがはっきりするまでの間、病棟の連絡がどれだけ正確に、詳細に行われたところで、話は絶対に伝わらない。


その人にとって何が切実な問題なのか、あらかじめそれを尋ねておくことなんてできないけれど、お互いの関係から切実な問題をパターン化、類型化することで、実用的な範囲で対処することは十分にできる。


それが患者さん本人だったら病気に深刻な問題が発生していないかどうかが切実になってくるし、ご家族であれば急変の有無がそれに相当する。病棟から主治医に連絡する際には、それがルーチン業務の範囲で対処できるものなのか、それとも何らかの予期せぬトラブルが発生したのか、まず真っ先にそれが知りたかったりもする。


会話の型について


例えば武道のように「型」の考えかたがある分野では、実戦に強い「すごい」人と、型の再現が巧みな「上手な」人とが分類できる。すごくてなおかつ上手な人だっているかもしれないし、すごいのに上手でない人は「型破り」と呼ばれたり、あるいは上手なのに実戦ではそれほど強くない人もいる。いずれにしても「型」という考えかたを持ち込むことで、「上手」と「すごい」とは区別される。


型のない分野では、すごい人がそのまま上手な人として認識される。


すごさというのは結果を見たパラメーターだから、すごい人は誰が見ても「すごい」と認識される。でも「すごくて上手な人」と「すごくて型破りな人」とは異なって、すごさの中にある「上手」要素は、型を知らないと評価できない。


会話の方法やコミュニケーションには、型の考えかたが希薄なのだと思う。


会話がすごい人は大勢いるのに、そのすごさは各人で異なって、すごさを学ぶことを難しくしている。会話という分野には型の考えかたがないから、どこかにいるかもしれない「会話が上手なのに会話がすごくない人」を、そもそもどうやって発見すればいいのかが分からない。


分かりやすさというものを目標にした会話の講座を行ったとして、それを聞いた人の会話がすぐに分かりやすくなることはたぶんない。その代わりそうした講座を受講した人は、言葉や話しかたにおける「上手さ」や「良さ」を判断して、定量することができるようになる。


根拠を持って定量、評価できるようになれば、誠意や道徳といった考えかたはそこから排除される。会話の技法にも型の考えかたを導入することで、すごい話者にはなれなくても、少なくとも上手な話者には到達できるのではないかと思う。






via レジデント初期研修用資料 http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/1504

0 件のコメント:

コメントを投稿